「南陽技術」第一号編輯後記より
(昭和22年12月31日発行)

 思えば過去6ヵ月は追放と賠償の嵐が国内を荒れ狂い、民は主食を求めてインフレの波と闘い国の上下を問わず混乱の巷と化した。其処には戦時中火の雨と闘った清き諦観も無く、明治後期から大正初期にかけて欧米一流国に伍さんとして示した窮乏に耐えて、理想の光を求むる民族的精進の姿も無かった。凡てが民族の誇りを捨ててインフレを利用し、自己の安全を計らんとする末世の姿であった。然も暗黒の裡に唯一の光明とされた米作の大豊作も、収穫量の科学的調査法完成せざるため、政治的平年作に堕し、絶大なる前進力を持つインフレの前にもろくも屈せざるを得なかった。其処へ襲って来たのはゼネストの脅威であり、産業再建にとり致命的とも謂うべき電力の禁止的使用制限であった。経済的危機近しとの声が国民の各層の素直に受け入れられる条件が満ち溢れて来たのである。

 斯かる時世に当会の如く一見迂遠なるが如き使命を持つ団体の運営は極めて困難である。然しゼネストと謂ひ、電力不足と謂い、将又食糧の増産と謂ひ、其の解決は技術の向上による産業振興以外の手段では望み得ない。ゼネストは何によりて起こったか、現在の如く収入賃金により労働者の生活が維持出来ない限りゼネストの危機は絶対に去らず、然も昂まり行く物価に適応する高賃金を資本家は支払ふ力を最早有して居ないからである。

 凡らゆる企業が遊休労働力を持ち、斯かる生産に関係の無い労働者の賃金が正常なる賃金の支払いを阻止して居る。然し現在の生産の枠の中では斯る遊休労働力の生産化は不可能に近い。新産業の育成即ち新しい資源の開発による産業、若しくは既存資源の新しい活用による産業の勃興を見ない以上、原料資材の面のみから見ても遊休労働力の消化は絶対不可能である。然し新しい産業は新しい技術を要求する。一般技術水準の向上無くして新産業の勃興した例は古今に稀である。一見迂遠の如く見えて本会は時節柄最も緊急な使命を荷なって居るのである。

 「南陽技術」第一号は大なる抱負の下に出発しながら途中幾多の予期せざる難関に遭遇し、殊に編輯者が病床に臥した為素人ばかりの編輯となり御覧の如く貧弱なるものにならざるを得なかった。此点多忙を押して執筆された有川、高戸、友成、内海氏の玉稿を汚す結果となり、又発行が著しく遅延した為調査資料の如きは幾分棚ざらしの感が深く、執筆者折角の努力に錦上花を添え得ない結果となってしまった。自責の念胸に迫るを感ぜざるを得ない。

 第二号以後には毎号相当の頁を割きて会員の通信を掲げ、部会、委員会の活動状況も詳細に載せる積もりで居る。敢えて主題を技術的問題のみに限らず、会員諸兄の意見発表機関として御利用下さって結構であり、余り堅苦しく取扱う必要はないと考えて居る。

 又会の運営に対する御希望御注意も遠慮無く知らして頂き度い。講演会も二ヵ月に一度は開催する予定で居たが仁田博士八木博士の後は希望する富塚清、仁科芳雄の諸先生方の都合が悪く秋の好季節を無為に見送った。22年度は毎月開催の予定で進み度い会員熟知の一流人に対し斡旋の労を執って戴ければ幸いである。

 技術的問題解決に外部の力を要する事があれば会として出来るだけの援助を計り度い。現場の問題であれば其の道のエキスパートを集めて工場診断班を組織し派遣してもよいし、又書面で解決出来る事であれば委員会、部会開催の際審議し、場合によりては其の為に特別の委員会を開く便宜さへ取計ひ、会本来の目的達成に努め度いと考えて居る。

 法人会員として県下の大工場は片上津山地方を除き殆ど入会済だが、中小工業者は紡績工業を除けば非常に少ない。御関係の先で適当な工場へ御勧誘願えれば幸いである。(初代事務局長・常務理事 巽 盛三 氏)


Last Updated at Nov 6, 1996