2022年9月1日 発信

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2022.6(Sep.2022)

 コロナ禍も収まらないなか14名の勇敢な参加申し込みがあり、“恒例高齢夏の大交流会”を開催した。その後体調不良の知らせはなく安堵している。
・【競争的資金・補助金情報】コロナ禍でも多種多様な補助金があります。ご希望の企業・個人に配信します。メールアドレスを再度連絡下さい[sangisin@optic.or.jp]
・技術交流会、工場見学会、山技振サロン(兼企画会議)は当分休会します。
・岡山県知事表彰(岡山県工業技術開発功労者)は、9月30日(金) 山技振必着(岡山県締切10月7日(金))
 企業や団体でこの道一筋の技術開発・事業開発・人材開発等に取り組んで来られた方を推薦下さい。詳細はURL参照 https://www.pref.okayama.jp/page/721363.html。応募予定を前以てご連絡下さい。早めに相談頂ければ、適宜アドバイスします。
・第72回岡山県児童生徒科学研究発表会
 今年も12月4日(日)に岡山理科大学を会場に開催される。協賛金寄付と山陽技術振興会会長賞(賞状とトロフィー)を4名に授与するが、コロナ禍のため来賓出席はなく関係者のみで発表会・表彰式が運営される。
・山技振恒例夏の大交流会(アイビースクエアー・ビアガーデン)
 14名の勇敢な会員から参加申込みがあり、“やるしかない”と“恒例夏の大交流会”を開催した。会場は3割の入り、我々のグループが最大勢力で3年ぶりの飲み会を貸切気分でゆったりと楽しむことが出来た。テーブルの両側に相対しないようにジグザグに椅子を配したため、声が届かないほど長い半島になった。銘建工業の中島社長と瀬崎さんが遠路真庭市から初参加して下さった。昨年の山陽技術雑誌に飛行船の話を執筆した本石さんが飛び入り参加された。皆さん、ありがとうございました。その後体調不良の知らせはなく安堵している。
・人材育成事業
 @山陽人材育成講座 8月末までに、出前7と体験型18を含む48講座を実施し、延べ受講者は1118名となった。年間見通しは、104講座、受講者2600名とコロナ前の水準に戻る見込み。Aアドバイザリーボード会議を3年ぶりに対面で実施。コロナ禍を“リモート化”と“水江研修室への安全教育機材搬入”により講座継続性を維持出来たことに賞賛の声あり。B水江研修室のKCT光インターネット工事完了。リモート講座の通信安定化や将来のタブレット講座への展開に資する。
・第0回人文知夏期学校公開講座
 講師:原田マハ氏「人文知は美術館にある―美術館のある街の活動を未来へ」 日時:8月27日(土)14:00~15:30、会場:倉敷公民館大ホール、定員:100名。東京生まれ・岡山育ちの原田マハさんは、大原美術館勤務の経験もあり、倉敷に来るときは「ただいま」の気分という。10歳の時に父親に連れられて行った美術館のインパクト(ピカソの鳥籠)が強く、将来、絵に係る仕事に着こうと思うようになった由。アンリ・ルソーが大好きで、彼が登場する小説を書きたいとの思いから小説家を志した。数十年の思いの詰まった小説は現在某雑誌に連載中である。ヨーロッパの美術館では赤ちゃんを抱いたお父さんの姿をよく見かけるが、日本ではあまり見かけない光景であるという。原田マハさんは、赤ちゃんを美術館に連れて行くべし、赤ちゃんは、絵を“感じる”ことは出来るという。講演のあと、妻に促されて久しぶりに大原美術館に入った。驚いたことに、乳母車を押す若い夫婦が居た。パパに抱っこされた赤ちゃんは肩越しに私に向かってにっこり笑った。確かに“美を感じる”ことは出来るのだ!
”戦争の記憶”
 今年のお盆休みは、コロナ禍のため盆帰省も墓参りもなく、旅行も遠出もしなかったのでテレビを見る時間が長かった。昼間は高校野球を見ながら様々な特別番組を録画して見た。ウクライナ戦争の影響であろうか、戦争モノの特別番組が多かった。「戦争を知らない子供達」という歌が流行った時代があった。私はどちらなのか自問自答していた。私が北鎮小学校一年生の時に旭川市永山町の第7師団官舎で玉音放送を正座して聞いた。高い位置に置かれたラジオの音声は不明瞭で聞き取れなかったが、母が泣いていたので日本が負けたと理解した。父親は職業軍人として北鎮部隊(第7師団)に勤務しており、遠征その他で家に居ないことが多かった。終戦詔書のあと、ほどなく父親から封筒が届いた。家族ひとりひとりに宛てた遺言であった。「自分は切腹して死ぬが、お前はお母さんを大切に守り、しっかり勉強して正しい国民になるように」と書いてあった。しかし、父は86歳まで生きて、生まれ故郷の愛媛県佐田岬の夏柑農家として一生を終えた。あの時どんな方向転換があったのか、あの遺言はどうなったのか、今となっては知る術もない。
 夏の特別番組に「ガダルカナル島の戦い」と「インパール作戦」があった。いずれも新たなデータ(生き残った関係者の証言、戦死者の日記、軍の記録、米軍の記録、等々)をもとに、時系列を追いながら、戦闘の推移を再現して見せるもので、よくまあ過去の出来事をここまでやるかという番組であった。
 インパール作戦という言葉に出会ったのは昭和38年、倉敷レイヨン鞄社後の実習教育で玉島工場滞在中である。父親は時々山口県萩市のジュース工場への出張があり岡山経由で出かけたようだが、その時は玉島工場に突然立ち寄り、工場幹部に挨拶をしたいと総務課長に会ったらしい。比較的長い挨拶のあと「お前の会社にはインパール作戦の生き残りが居るんだなあ」と感慨深そうに話したのを覚えている。磯部卓男氏である。彼はクラレ中央研究所の総務課長も務めた。独身寮の一室で朝早く起きて朝の光の中で収集した絵を眺めるのが無上の楽しみと聞いた。インパール作戦に関する本を何冊か著しているが、1984年発行の「インパール作戦―その体験と研究」磯部卓男著(318頁)が手元にある。表紙は筋肉隆々の裸の男の背中を描いた油絵である。【kajix】

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