![]() |
2025年6月1日 発信 |
![]() Tel.(086)454-8820/Fax.(086)454-8821 | |
2025.03(Jun.2025) |
![]() | |
(1)6/9山陽技術振興委員会(旧担当者会議)を水江事務所にて開催予定。 (2)7/28第35回AB(アドバイザリー)会議予定。 (3)ICT教育と業務改革:ICT機材活用した対面教育の推進と効率化・業務改革。 (4)山技振HP・人材HPの改良改善(写真、動画、シラバス等)。 (5)環境整備:新設会議室に65吋モニタ準備、講義室定員増に合わせ娯楽室の机椅子給茶機等導入。 (6)2025年予想:29科目のホーム80講座と出前18講座を合わせ98講座の実施予定に対し、現時点で44事業所から応募があり、2571名が受講希望(昨年実績を若干下回る)。 | |
![]() | |
(1)5/21電子請求書システムの会計ソフトNI Consulting担当者来訪(導入費33万円)。 (2)4/21拡張水江研修室でのグループ討議講座開始。 (3)5/1岡山県産業振興財団がセキュリティー強化サーバー切替実施。全員のメール設定完了。 (4)5/29「ものづくり日本大賞」一次審査合格を受け二次審査にオブザーバー参加。経産省本庁より7名がヒヤリングに来訪予定(~8月)。 (5)出前講座の動向:旭化成(1+2)、クラレ研修所(6+0)、大分県(0+2)、太陽石油(3+0)、日本触媒(2+1)、クラサス大分[旧昭電](1+0)、合計18 | |
![]() | |
「岡山大学工学部の新設〜核のない学部新設の道を拓く」江野村一雄(元山陽技術振興会常務理事) | |
1.岡山大学理学部に高分子化学講座新設 昭和29年当会理事であった岡山大学理学部江見浩一教授より「理学部化学科は現在4講座であるが、5講座の枠があり1講座がお預けになっている。これを充実するにあたり山技振に協力をお願いしたい」との要請があった。当時の理学部長、学長清水多栄氏と諮り大学の方針を決定して貰う一方、当会は地方の科学技術振興のためには各地方の国立大学自然科学系学部の充実を図ることが肝要との考えのもとに同趣旨の委員会を設置しており、この充実講座を「高分子化学講座」として貰いたい旨申し入れ、大学当局は文部省と折衝するところとなり、8月16日当会大原会長の文部大臣宛の「講座新設要望書」を常務理事江野村一雄が携えて文部省の課長、局長を訪ねて折衝し、紆余曲折を経て予算要求が文部省から大蔵省に提出されたとの情報を得て直ちに上京し、10月27日大蔵大臣小笠原三九郎氏、主計局長森永貞一郎氏、主計官鳩山威一郎氏へ大原会長の陳情書を提示し、要望が認められた。昭和30年4月新講座が開設された。本講座開設が当地方の科学技術振興、産業振興に貢献した功績は誠に大きい。 2.「岡山大学工学部の新設〜核のない学部の新設の道を拓く〜」 理学部高分子化学講座新設(昭和30年)の成功に続いて「岡山大学工学部の新設」に挑戦した。 核なき学部新設は困難を極めたが、理由書・陳情書及び陳情団派遣等の粘り強い活動の結果、昭和35年5月工学部開学を実現した。山陽技術振興会が地域の科学技術振興に貢献した顕著な事績と言えよう。 戦後の学制改革で創設された岡山大学は、他の地方国立大学と同様、岡山県内に所在した各種専門学校等(岡山医大、六高、県立農専、師範学校)が統合され、医学部、理学部、法文学部、農学部、教育学部という新編成がなされた。自然科学系で工学部が欠けていて総合大学としての機能を果たす上で遺憾さがあった。新産業都市が全国に作られる時代に、地方の科学技術を振興する上で大学工学部がないことは困った状況であった。当会は当初からこれらの打開策を考え、その実現を通して地方の科学技術振興に一寄与をなすとともに、全国各地の国立大学充実を計ろうと併せ考え、各地方の科学技術振興の道を拓かんと期した。 昭和30年当会内に岡山大学工学部設置委員会を開設し、委員の中に、当会理事・岡山大学理学部江見浩一教授を入れ、「工学部の備えるべき教育・研究施設、設備、教授陣、予算(新設、経常)、ならびに学科構成等」を検討した。昭和31年、文部省学術局大学課に依頼して検討に資する文献提供を依頼するとともに文部省開設審査に合格すべく準備態勢を整えた。これに対し清水多栄学長は多とされ同大学の方針を確立し、実現へ最善を期せられた。よって当会は昭和31年12月28日に大原会長名を以って岡山大学工学部開設調査費予算が実現する様、文部大臣、同官房長、同大学学術局長、同会計課長に陳情書を提出、要望すると共に大蔵大臣、主計局長へも陳情要望したが目的達成には至らなかった。 昭和32年に入り、学制改革以来未踏の事柄である「核のない大学の新学部創設には権威ある大義名分を提示しなければならない」と痛感し、その証となる権威ある文献・資料を収集した(科学技術庁調査局、経済企画庁開発部、(財)資源協会、文部省大学学術局、厚生省人口問題研究所、等々)。これらをもとに岡山大学工学部開設の理由書を作成、岡山大学工学部設置委員会に提示した。これが、核なき学部を大学に新設する行政施策が執らるるに至った先鞭となる理由書の原型となったことは感慨深い。 昭和32年5月1日には岡山大学ならびに山陽技術振興会の二つの工学部設置期成会全員会議が大阪市北区梅田の第一生命ビル内潟Nラレ本社社長室にて開かれ。@岡山大学工学部新設理由、A新設学科、B施設・設備、等一連の重要基本方針が議せられ、新学部開設への道が開かれたことは後世に書き留めて置かねばならない[出席者:岡山大学:学長清水多栄、事務局長猪狩忠英、法文学部矢野万里、理学部長浅越貫一、農学部長篠崎侑一、山技振:会長大原總一郎、副会長宮崎定一、同服部高尚、常務理事江野村一雄]。 一方昭和33年開学を想定して県内高校生を対象に工学部進学希望者の動向調査を実施し工学部開設の準備態勢を着々と進めた。この努力が結集され昭和32年9月には岡山県下の総ゆる関係機関の共感共鳴が起こり三木知事を中核に、大学、県議会、市町村、商工会議所、経済同友会を巻き込んだ「岡山大学工学部設置期成会」が設置された。副知事室にて度々会議を開き、大学当局と表裏一体となって文部省、大蔵省に万遺憾無き陳情を展開した。当会は終始推進役としての努力を続けた。文部省はこれに応え省議により予算化を執ったが大蔵省は昭和32年10月この予算化を否決した。これを受けて10月22日同期成会は昭和34年度には開学するべく最善を尽くすことを議決した。三木知事はより高次元の組織編成を致し県内関係機関の首脳を期成会委員に委嘱した。 昭和33年8月22日に陳情書による陳情並びに陳情のための陳情団の上京を議決した。9月2日陳情書の発送、9月10日陳情団による陳情を実施した。陳情団メンバーは、岡山県知事(代理副知事)、岡山大学学長、山陽放送且ミ長、県議会議長、商工会連合会長、市長会代表、山技振会長(代理常務理事江野村)の7人であった。一行は、衆議院議員会館にて岡山県選出衆参議員諸賢に陳情、その後の一連の陳情は衆議院議長星島二郎氏の斡旋の労に浴した。文部省事務次官は冷房のない部屋で「前例のない故を以ってこの度の陳情は受理出来ない」と明確に拒否された。一行は憤懣遣るところなく、翌日星島二郎氏宅を訪ね報告、氏は参議院劒木文教委員長を斡旋して下さった。このことが工学部創設への大いなる踏段となった。この陳情の一部始終を同期成会にて報告、大蔵大臣、主計局長への陳情の実施、岡山県選出国会議員全員への再度の懇請を決め、11月11日万全の措置を果たした。この努力にも拘わらず、昭和34年1月に至って大蔵省の認めるところとならなかった。 昭和34年8月、捲土重来を期し、県知事、学長は度々期成会を開催し万全の処置を採った。岡山大学当局は昭和35年度の開学を期して準備態勢に入り、機運が盛り上がった。昭和34年10月6日、文部省は新学部創設を昭和35年度に実施するとの省議内定が学長より報告され、この千載一遇のチャンスを捕えて新学部創設実現を計るべく以下の担当大臣及び担当官並びに予算審議に当られる衆参両院議長、担当議員に陳情した[大蔵大臣佐藤栄作、他3名、文部大臣松田竹千代、同次官宮沢喜一、正副議長、文教委員長、同委員、岡山県選出国会議員全員、自民党政調会長・副会長、日本社会党政審会長・副会長等々]。 昭和34年11月25日期成会全体会議を開催し、大蔵大臣と文部大臣に直接お会いして当期成会会長大原總一郎氏の陳情書を御手渡し、篤と懇請することを決定した。この最重要な懇請者には山陽技術振興会常務理事江野村一雄と岡山県議会議員今井剛氏(井原市)とが指名された。昭和34年11月30日参議院議員近藤鶴代氏を議員会館に訪ね、大蔵大臣と文部大臣への陳情斡旋方をお願いした。偶々この日は前日の安保反対デモの騒乱の後始末のため両院とも議事は停止され、両大臣とも国会内に居られるからと近藤議員の車に同乗して国会内を移動した。国会内の赤絨毯を踏んで大蔵大臣室に佐藤栄作氏を訪ねた。大臣は期成会会長大原總一郎署名の陳情書全文を克明に読まれ、次の通り申された。「岡山県地方の科学技術を振興するためには山口大学(大臣の出身地)工学部の卒業生を採用して貰いたい。」とのことであった。これに対し今井・江野村の二人は「山口大学工学部の卒業生は全国の大企業から引っ張りだこで、岡山県地方へは一人も来て貰えない状況です。」大臣は、「そんな状況か、それなら岡山大学工学部の新設予算を昭和35年度施行しましょう。しかし、これにはこれから松田文部大臣に会って篤と陳情するように」とのお言葉を頂いた。この時の江野村の脳裏には長年に亘る出来事が去来し、感慨無量に浸った。続いて、近藤鶴代議員のご案内で文部大臣室に松田竹千代大臣を訪ね、大原總一郎署名の陳情書を届けるとともに佐藤栄作大蔵大臣の言葉を伝えて篤と懇請した。これを受けて大臣は図らずも長々と「岡山県出身の女性の批判論」を述べられた(松田竹千代文部大臣の御令閨は岡山山陽高等女学校の出身であることを後日知り得た)。ここで大臣の腹は岡山大学工学部開設の実現化に踏切って居られたと察した。案の定、大臣は言葉を受けて「実は大阪大学から基礎工学部の開設が懇請されていて、岡山大学工学部の開設とどちらを先に執り上げるべきか文部省内で議論されたが、私は「岡山大学工学部を昭和35年度開学することに定めた。そして大阪大学基礎工学部の開学は昭和36年度に実施することにしている。」と明言され、陳情者江野村・今井はしばし筆舌に絶する喜びと満足感に浸ったのである。斯くして「核のない学部新設の道を拓く」長いドラマは呆気なく終幕を迎え「新設岡山大学工学部」は昭和35年5月スタートし、卒業一期生はすでに喜寿を超えた。【kajix】 |