2023年11月1日 発信

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2023.8(Nov.2023)
・第87回岡山県児童生徒発明くふう展および2023岡山県未来の夢絵画展にかかる審査委員会
 日時 令和5年11月6日(月)14:00~17:00、場所 テクノサポート岡山
・ロボカップジュニア2024倉敷ノード大会
 日時2023年11月19日(日)、場所ライフパーク倉敷。
・OUSフォーラム2023[山技振後援]
 令和5年11月27日(月)13:00~18:00、開催場所:岡山プラザホテル、内容:特別記念講演、研究シーズ発表、技術相談。
・【中間理事会開催】
 日時:令和5年11月30日(木)1830〜1930、於倉敷商工会議所、議題:美和事務所閉鎖に伴う事業見直し。*山技振の今後の方向性を議論する重要な会議です。万障繰合せてご出席をお願いします。(理事の方には予め出席の可否をお尋ねします。) 
・第73回岡山県児童生徒科学研究発表会
 今年も12月3日(日)に岡山理科大学を会場に開催される。協賛金と山陽技術振興会会長賞で協力する。
・技術交流会、工場見学会、山技振サロンは当分休会します。村川・難波技術奨励賞の募集はありません。
・[人材育成事業]
 @12月1日(金)担当者会議を美和事務所で開催、2024年度スケジュールを決定。懸案のテキストのカラー化とそのための受講料1000円値上げを付議。A12月より企業訪問開始。一部対面講義再開の新スケジュール・新シラバス・新受講料を周知する。B1月31日(水)AB会議を倉敷商工会議所で開催予定。一部対面講義再開の新スケジュールを再確認予定。この機会に関係者を集めて元山口大教授久保先生(人材育成講座設立当初から尽力)の最終講義を実施予定。C来年5月31日(金)人材育成会総会を倉敷商工会議所にて開催予定。(特別講演:鈴木康幸氏[消防研究センター長・元消防庁審議官])を予約)
・岡山県知事表彰(岡山県工業技術開発功労者)
 今年は4件の応募があり県担当部局に提出。
・[山陽人材育成講座]
 @10月末までに出前14を含む67講座を実施、延べ1808名が受講。年間見通しは102講座(内訳:出前・共催25、ホーム講座77)、延べ受講者2726名。採算見通しは、経費、講師委託費、教材改訂費、労務費等の増加を見込んでも増益の予想。A9月11日に2024年度のスケジュールとシラバス改訂を10月20日〆で講師に依頼、34件中22件回答、次回担当者会議で決定。
「フクロウと青葉木菟」
 壁にあるフクロウをどうしようか思案中である。美和事務所閉鎖まで半年を切った。25年前にクラボウ(アイビースクエアのフローラルコートあたり)から現在地に移転した。翌1999年に安井昭夫さんが副会長に就任、その後17年間山技振の副会長・会長・事務局長を務め、2016年2月に急逝された。安井さんの部屋の机や書棚やPCは梶谷が引継いだ。ご家族(奥様と娘さん)には主要な遺品やデータを引き取って頂いた。フクロウも何体かあった。ご自宅の庭や座敷には多くのフクロウが居た。安井さんがフクロウ愛好者であったため、多くの人がフクロウ・グッズを寄贈してコレクターになったと思われる。山技振にあるフクロウの絵やタイルや民芸グッズはそのまま残っている。倉敷民芸館では特別企画展「安井昭夫追悼展−ふくろうと心偈」が開催された。安井さんは、山陽技術振興会だけでなく考古館館長と民芸館館長も務め、三者同時に公益法人化を実現した(大原總一郎が喜んでくれると信じて)。民芸館館長になるや、民藝館にあった「柳宗悦選集」全10巻を読破したと思われた頃、私に向かって「民芸の父とか言うとるけど、大したことはねえぞ!」と宣うたことがある。倉敷民芸館館長として外国人も参加するワークショップやシンポジウムを開催して結構入れ込んでいた。  安井さんが尊敬する大原總一郎の随想集「母と青葉木菟」の最初に登場するのが青葉木菟である。幼稚園の頃、夏は母親と明石の別荘で過ごしていたある日、青葉木菟の子を見つけ、散々追い回した挙句ようやくつかまえる。余程嬉しかったので帰郷の時に持ち帰りたいと母親に申し出た。母はうなづいて、その夜は納屋の中に木箱でふせて、その上に大きな石を置いて寝ることにした。翌朝が来た。青葉木菟を携えて郷里に帰る時が来た。ところが、その時になって思いもかけぬ不思議な出来事を知らされた。連れて帰るはずの青葉木菟がいないというのである。重しの石を置いた箱の中にいるとばかり思っていた青葉木菟がいなくなったというのである。不思議といえば不思議なことがあるものだ。がっかりして母にいろいろとそのわけを尋ねてみたが、母も知らない、不思議なことだと答えるばかりで、下男も傍から、箱の位置も石の位置も昨夜のままだし、床との間に隙間もないのに中の鳥は居なくなった、不思議なこともあるもんだと相槌をうった。私は空箱と松並木を眺めるだけで、諦めるほかなかった。  月日は巡って、私(總一郎)は成長するが、青葉木菟の声が聞こえたり、明石を通ったりするたびにこの時の出来事を思い出した。どうしてあの大きくもない鳥が自分の目方の何十倍もある箱と石とを動かして逃げたのだろうか。それがいつも不思議でならなかった。その疑問は年と共に繰り返され、同じように不可解のうちに残された。母は昭和5年の春、私(總一郎)の大学卒業を見ることも出来ず、しかし満足と感謝のうちにこの世を去った。それから数年がたった。青葉木菟の事件は折に触れ思い出された。ある日のこと、山陽線の汽車の中で、ふと、あの青葉木菟は自分で逃げたのではなく、誰かに逃がして貰ったのではないだろうか、という疑いが浮かんだ。私はこの考えが突然脳裏をかすめた時、思わず「なーんだ」という自嘲の気持ちと、可笑しさを禁ずることが出来なかった。なぜ二十年もの間、この単純な疑問を想わずに来たのだろうか?しかし同時に、私は私のうちになお温かかった多くの幸福が一瞬にして消え去ったようにも思われて、自分の心に広がって来た邪悪な疑いに失望の悲哀を感ぜざるを得なかった。【あとは原著へ】[kajix]

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